先日、普通免許の更新に行ってきました。

私は、著書にも書いたように、よく
トレードは予測のゲームではない。
可能性に賭けるゲームである。
ということを言います。

まあ、文で書くと言語表現の問題に過ぎないので、文章的には曖昧なところなんですけど。
よく本を読んでみると、「可能性」のことを「予測」と表現しているような著者の方もいらっしゃいますし、言葉の使い方は結構曖昧なんで、それ故に、「なぜ、その違いがトレードにとって、そんなに重要なのか」ということが伝わりにくい部分でもあるんですけど、本質的には、大きな認識の違いの問題なんですよね。

さて、免許の更新時には、講習が義務づけられています。
その講習で、よく、こういうことを言いますよね。
「だろう」運転をしてはいけない、「かもしれない」運転をしよう。

「だろう」というのは、要するに決めつけです。
「ここから人は飛び出してこないだろう」「このぐらいのスピードなら大丈夫だろう」「相手がよけてくれるだろう」などという「だろう」です。
車の運転において「状況を決めつける」ことは危険だということです。

「かもしれない」というのは、要するに、意識的に「起きるかも知れないことを(最大限に)考える」ということです。
「車のカゲから人が出てくるかもしれない」「急に対抗車線のバイクが中央に出てくるかもしれない」「横を歩いている子供が飛び出してくるかもしれない」などという「かもしれない」です。
車の運転においては、「可能な限り、考えつく状況を列挙しておく」のが安全だということですね。

お分かりだと思いますが、トレードで「予測」するというのは、いわばこの「だろう運転」なのです。
一方で「可能性に賭ける」というのは「かもしれない運転」なのです。
前者は、決めつけです。
言い換えると、それ以外の可能性を無意識に排除しようとしている、ということなんです。
後者は逆に、可能性を最大限に列挙して念頭におく、ということです。
このように、言葉では違いがイマイチ曖昧でも、本質的には全く正反対のことを言っているわけなのです。

今、「可能性を無意識に排除しようとしている」と言いましたが、まさにトレードにおける「予測」とはそういうことです。
基本的に、買うだけ、もしくは買いが主体のトレーダーなら、基本「上がって欲しい」というか「上がる予想を希望する」バイアスが最初からかかっているわけです。
その基盤から出発する予測というのは、要するに「出来るだけ、上がると思えるものを見つけ出す」という傾向になります。
言い換えると、逆、すなわち「下がる」方向の要素は、無意識に無視しようとするわけです。
これが予測の恐ろしいところです。

そんなこと言っても、「かもしれない」はあくまでも「かもしれない」に過ぎないじゃないか、「上がるかもしれない」「下がるかもしれない」も半々だろう? と言われそうですが、たとえば、道の中央で対向車が止まっていて右にウインカーを出していたら、これは普通に考えて「左に曲がる」よりは、「右折する可能性が高い」ということですよね?
この「可能性が高いと思われる」ところに賭けるのが、トレードなのです。
むろん、トレードの可能性は、右折ほどはっきりしていませんが、それでも「優位」だと思える場面はあります。
それが「相場勘」だったり「テクニカルにおけるブレイクだったりレジスタンスでの反発だったり」するわけです。


「だろう運転」が危険なのは、決めつけていた状況と違うことが起きたとき、対処できなくなるからですね。
同じく、「だろう」運転トレードをすると、思っていたのと違う状況になったとき、うまく動けません。
損切りを躊躇したり、延々我慢してから最悪のときに切ったりする、売りから買いスタンスに転じるべきなのに、売りスタンスに固執しちゃったりする、などなど
トレードの失敗は、こういう「だろう」運転トレードから来ます。

ところが、ここで問題なのは、人間というのは基本「だろう運転」をする生き物だということです。
なぜなら、人間には標準で「安心したい」という機能などが備わっているからです。
安心したいという欲求を満たすには「こうなるだろう」「こうはならないだろう」などと決めつけておけばいいのです、そうすれば「安心」なのです。
まあ、他にも色々ありますが、要は、意識的に心がけて動かない限りは、人間は自動的に「だろう運転」になるように出来ているということです。
この話、たとえは違いますが、私が投資の聖杯で述べている、人間は標準で備わった機能のままでは基本負けるように出来ているので、行動経済学が示したような物事を理解し、意識的にコントロールできるようにならなければならない、ということと同じことを言ってます。

トレードの安全のためにも「かもしれない」運転トレードをお勧めします。