私は、よく、チャートの判断について「つまるところ、トレーダーの感覚的なものなので、一概にこうとは言えない」ということを書きます。
実際にトレードをされている方の多くは、裁量トレードでしょうし、ある程度ルールを厳密に決めていても、最終的な判断になんらかの幅を持たせているなら、それはやはり裁量トレードであり、そこに「主観」が入っていることは疑いの余地がありません。

こうした感覚の部分というか、センス、雰囲気、といった部分を、なんとか文章で伝えられればいいとは思うので、常々考えてはいますが、やはり無理があり、限界はあります。
たとえば、チャートの分析を文章化して、図と共に伝えたとして、それが「正解」かといえば、書いている側としては「なんか違うな」ということになるわけで、やはり、これは言葉では伝えにくいことなのです。

こういう例を考えれば、いわんとすることが少しは分かってもらえるかもしれません。
たとえばデイトレードをするとします。
5分足のチャートを分析しているとして、ある場面で、「長い上ひげを持った陰線が出来た」とします。
問題を単純化するために、ここでは前後関係や価格の水準などは無視するとして、この陰線に対して「ブル派(買い手)が攻めたが、ベア派(売り手)の抵抗にあって価格は下落した。ここは弱いと考えられる」などという説明をすることに、異論を挟む人はチャート派なら、あまりいないでしょう。
確かに、理屈としてはそれでも正解なのです、ですが、実際にそのチャートをトレード時に見ているときはどうでしょうか?
つまり、5分足ということは、5分間、目の前で、その足が伸びたり縮んだり、時に一度伸びては下がることでヒゲの長さが伸びていったり、なんていう、リアルタイムで足が形成されていく動きを見ているわけですよ。
ぐいん! と現在値が押し下げられるような動きが何度もあったりとか、それこそ、中世の軍隊が剣と盾で入り乱れて戦闘してて、押したり、押し返したりしているような印象、そういう「動きの印象」から「弱い」だとか「強い」だとか「あんまり強くなさそうだ」などという感覚を得たりしているわけです。

で、結果として、最後に長い上ひげの陰線になって、結果論として「弱い」という結論を出すわけですが、実際にはその結論には、途中の動きから受ける印象がとても強く作用しているわけですよ。
ところが、文章で結果だけを書くと、単に結果としての「弱い」という話になってしまい、そこに至る感覚の部分が全部スルーされる、こういうのが「文で説明すると何か違う」と感じる部分なわけです。

むろん、その5分足の形成の動きというのは、一番分かりやすい例を出しただけで、それ以外の様々な外部情報、たとえば耳に聞こえてくる「投資ラジオ」だとか「ちらっと見た(今トレードしているのとは別の)金融商品のチャート」だとか、とにかく、その結論に至る過程で得た、ありとあらゆる外部情報が感覚に影響を与えているわけですよ。
人間というのは感情の生き物ですから、それこそ、突然窓の外で豪雨が降り出した、なんていう天気だったり、昨日彼女にフラれた、なんていう感情さえ影響を与えている可能性があるわけです。

トレーダーは、常にそういう感覚的なものを得ながらチャートを判断しているわけで、その過程部分をすっ飛ばしてしまって結果だけをまず提示するのが、文章によるチャート解説なわけです。
で、はじめに結果ありきで、あとから、その結果に至る理由を「理屈で説明できる範囲だけを取り出して説明している」わけなんですが、そうすると、結果に至る途中で得ていたはずの感覚的なものがごっそりと抜け落ちている状態になるわけです。
ですが、実際に長い間トレードをしていると
本当に大事なのは、そのごっそり抜け落ちている部分であり、その比重がとても大きい
と理解できてくるわけですよ。

その肝心の部分がなければ、チャート解説なんかしても意味ないだろう、と思うわけです。
だから、私は、あまりチャートを出してきて後知恵で解説する方法は感心しないし、あまりやりたくないんです。
昔の相場師達が、著書の紙面でそれをやっていないのも、同じ理由だと思います。

たとえばですね、青軍と赤軍が戦っているのを俯瞰視点で見ていたとして、青軍が赤軍に押されて、じりじりと後退していると。
これを結果論だけで見れば、「青が不利、赤が優勢」と言うしかないわけです。
ですが、実際の戦闘をつぶさに見ていると、様々な情報から「実は青軍のほうが兵士が優秀であろう」と感じることはあると思うんですよ、これと同じことなんです。
だからこそ、同じ上ひげの陰線であっても、実際のトレードでは、理屈とは違って、感覚的には、逆に「これは強い」と感じる場面があったりするわけです。

しかし、それは決して言葉では伝えられない部分ですから、本に書くチャート解説というのは、言うなれば
換骨奪胎した状態の説明
でしかないわけです。

ここのところが、本を書く上で、常に悩ましいところなんで、常々「感覚的なもので、本当には説明できない」などと書いているわけなんですが、もっと悩ましいのは、そもそも、この「感覚的なもので、本当には説明できない」ということが「なんで?」と、うまく伝わらないことなんですよねw

なんとか伝えたい、という思いは、今でもあるんで、そのうち今後の著書ではやるかもしれませんけど。