トレーダーズ・グレイル

トレードの世界を探求するプロトレーダー増田蔵人の気まぐれ更新ブログ 本当に勝てる投資家になるためのブログ

セイラー博士、おめでとう

だいぶ間があいてしまったんですが、今年のノーベル経済学賞は
行動経済学者のリチャード・セイラー博士
が受賞したようですね。

著書にも書いたようにノーベル経済学賞は
実はノーベル賞ではない
上に
主張が真っ向から対立する2人に賞を与えるような、かなりいいかげんな賞
で、遺族に
ノーベルは墓の下で激怒してるだろう
なんて言われちゃってるぐらいのアレな賞なんですが、まあ、それはさておき、とりあえず
セイラー博士、おめでとうございます。

私、投資の聖杯: ~投資常識の嘘~ 本気で勝てるトレーダーになりたい人のためのバイブルにセイラー博士の引用を載せたかどうか忘れましたが・・・ってなんで忘れてるかって、あの本は、書くときに大量の引用をピックアップして、あとからその中から文脈にあいそうなものを選んで掲載したので、最終的に採用したかどうか分からなくなってるわけなんですが、とにかく、あの本を書く上で、かなり、セイラー博士の本は参照しています。

そもそも、投資の聖杯を執筆しはじめた頃は、今ほど行動経済学はポピュラーではありませんでしたし、なによりも、行動経済学の創始者である、ダニエル・カーネマン自身が書いた本がまだ存在していなかったので、文献が少なかったわけです。

私が行動経済学を勉強し始めたのは、たしか20代だと思うんですが、その頃は「行動ファイナンス」の呼び名が普通でしたけど、うちの父は、実は某国公立大学の経済学部の教授だったんです、結構、経済学でそれなりのエライ人です。
その父に、「行動経済学を勉強してる」と言ったら、「そんなものは聞いたことがない」と言われたという(笑)、まあ、今では信じられない話ですが、最初は、そのぐらいマイナーだった、ということです。
そんなところからはじまってますから、ぶっちゃけて言えば、最初は「勉強するのも大変だった」んですよ。

本の中でも触れたように、行動経済学は、特に日本では「行動経済学の専門家を自称する人にさえ、間違いが目立つ」と言われるぐらいですから、なるべく、カーネマン以外の文献に頼らず、カーネマンの残した言葉を頼りにしていたのですが、さすがに限界があります。

そこで、次の手段で、カーネマン自身が「この人は大丈夫」的なお墨付きを与えた人の本だけを参考にしたのですが、その中で、セイラー博士の本には大いに助けられました。
セイラー博士の本は、正確であるだけではなく、なによりも「行動経済学を知らないど素人にも分かるように、非常に平易な言葉でとっつきやすく書かれている」ことが素晴らしいです。

セイラー博士の本がなかったら、「投資の聖杯」は完成していなかったでしょうから、感謝に堪えません。

セイラー教授の行動経済学入門
リチャード・セイラー
ダイヤモンド社
2007-10-27



実践 行動経済学
リチャード・セイラー
日経BP社
2009-07-09


予測と可能性の違い

先日、普通免許の更新に行ってきました。

私は、著書にも書いたように、よく
トレードは予測のゲームではない。
可能性に賭けるゲームである。
ということを言います。

まあ、文で書くと言語表現の問題に過ぎないので、文章的には曖昧なところなんですけど。
よく本を読んでみると、「可能性」のことを「予測」と表現しているような著者の方もいらっしゃいますし、言葉の使い方は結構曖昧なんで、それ故に、「なぜ、その違いがトレードにとって、そんなに重要なのか」ということが伝わりにくい部分でもあるんですけど、本質的には、大きな認識の違いの問題なんですよね。

さて、免許の更新時には、講習が義務づけられています。
その講習で、よく、こういうことを言いますよね。
「だろう」運転をしてはいけない、「かもしれない」運転をしよう。

「だろう」というのは、要するに決めつけです。
「ここから人は飛び出してこないだろう」「このぐらいのスピードなら大丈夫だろう」「相手がよけてくれるだろう」などという「だろう」です。
車の運転において「状況を決めつける」ことは危険だということです。

「かもしれない」というのは、要するに、意識的に「起きるかも知れないことを(最大限に)考える」ということです。
「車のカゲから人が出てくるかもしれない」「急に対抗車線のバイクが中央に出てくるかもしれない」「横を歩いている子供が飛び出してくるかもしれない」などという「かもしれない」です。
車の運転においては、「可能な限り、考えつく状況を列挙しておく」のが安全だということですね。

お分かりだと思いますが、トレードで「予測」するというのは、いわばこの「だろう運転」なのです。
一方で「可能性に賭ける」というのは「かもしれない運転」なのです。
前者は、決めつけです。
言い換えると、それ以外の可能性を無意識に排除しようとしている、ということなんです。
後者は逆に、可能性を最大限に列挙して念頭におく、ということです。
このように、言葉では違いがイマイチ曖昧でも、本質的には全く正反対のことを言っているわけなのです。

今、「可能性を無意識に排除しようとしている」と言いましたが、まさにトレードにおける「予測」とはそういうことです。
基本的に、買うだけ、もしくは買いが主体のトレーダーなら、基本「上がって欲しい」というか「上がる予想を希望する」バイアスが最初からかかっているわけです。
その基盤から出発する予測というのは、要するに「出来るだけ、上がると思えるものを見つけ出す」という傾向になります。
言い換えると、逆、すなわち「下がる」方向の要素は、無意識に無視しようとするわけです。
これが予測の恐ろしいところです。

そんなこと言っても、「かもしれない」はあくまでも「かもしれない」に過ぎないじゃないか、「上がるかもしれない」「下がるかもしれない」も半々だろう? と言われそうですが、たとえば、道の中央で対向車が止まっていて右にウインカーを出していたら、これは普通に考えて「左に曲がる」よりは、「右折する可能性が高い」ということですよね?
この「可能性が高いと思われる」ところに賭けるのが、トレードなのです。
むろん、トレードの可能性は、右折ほどはっきりしていませんが、それでも「優位」だと思える場面はあります。
それが「相場勘」だったり「テクニカルにおけるブレイクだったりレジスタンスでの反発だったり」するわけです。


「だろう運転」が危険なのは、決めつけていた状況と違うことが起きたとき、対処できなくなるからですね。
同じく、「だろう」運転トレードをすると、思っていたのと違う状況になったとき、うまく動けません。
損切りを躊躇したり、延々我慢してから最悪のときに切ったりする、売りから買いスタンスに転じるべきなのに、売りスタンスに固執しちゃったりする、などなど
トレードの失敗は、こういう「だろう」運転トレードから来ます。

ところが、ここで問題なのは、人間というのは基本「だろう運転」をする生き物だということです。
なぜなら、人間には標準で「安心したい」という機能などが備わっているからです。
安心したいという欲求を満たすには「こうなるだろう」「こうはならないだろう」などと決めつけておけばいいのです、そうすれば「安心」なのです。
まあ、他にも色々ありますが、要は、意識的に心がけて動かない限りは、人間は自動的に「だろう運転」になるように出来ているということです。
この話、たとえは違いますが、私が投資の聖杯で述べている、人間は標準で備わった機能のままでは基本負けるように出来ているので、行動経済学が示したような物事を理解し、意識的にコントロールできるようにならなければならない、ということと同じことを言ってます。

トレードの安全のためにも「かもしれない」運転トレードをお勧めします。

感覚と文章の限界

私は、よく、チャートの判断について「つまるところ、トレーダーの感覚的なものなので、一概にこうとは言えない」ということを書きます。
実際にトレードをされている方の多くは、裁量トレードでしょうし、ある程度ルールを厳密に決めていても、最終的な判断になんらかの幅を持たせているなら、それはやはり裁量トレードであり、そこに「主観」が入っていることは疑いの余地がありません。

こうした感覚の部分というか、センス、雰囲気、といった部分を、なんとか文章で伝えられればいいとは思うので、常々考えてはいますが、やはり無理があり、限界はあります。
たとえば、チャートの分析を文章化して、図と共に伝えたとして、それが「正解」かといえば、書いている側としては「なんか違うな」ということになるわけで、やはり、これは言葉では伝えにくいことなのです。

こういう例を考えれば、いわんとすることが少しは分かってもらえるかもしれません。
たとえばデイトレードをするとします。
5分足のチャートを分析しているとして、ある場面で、「長い上ひげを持った陰線が出来た」とします。
問題を単純化するために、ここでは前後関係や価格の水準などは無視するとして、この陰線に対して「ブル派(買い手)が攻めたが、ベア派(売り手)の抵抗にあって価格は下落した。ここは弱いと考えられる」などという説明をすることに、異論を挟む人はチャート派なら、あまりいないでしょう。
確かに、理屈としてはそれでも正解なのです、ですが、実際にそのチャートをトレード時に見ているときはどうでしょうか?
つまり、5分足ということは、5分間、目の前で、その足が伸びたり縮んだり、時に一度伸びては下がることでヒゲの長さが伸びていったり、なんていう、リアルタイムで足が形成されていく動きを見ているわけですよ。
ぐいん! と現在値が押し下げられるような動きが何度もあったりとか、それこそ、中世の軍隊が剣と盾で入り乱れて戦闘してて、押したり、押し返したりしているような印象、そういう「動きの印象」から「弱い」だとか「強い」だとか「あんまり強くなさそうだ」などという感覚を得たりしているわけです。

で、結果として、最後に長い上ひげの陰線になって、結果論として「弱い」という結論を出すわけですが、実際にはその結論には、途中の動きから受ける印象がとても強く作用しているわけですよ。
ところが、文章で結果だけを書くと、単に結果としての「弱い」という話になってしまい、そこに至る感覚の部分が全部スルーされる、こういうのが「文で説明すると何か違う」と感じる部分なわけです。

むろん、その5分足の形成の動きというのは、一番分かりやすい例を出しただけで、それ以外の様々な外部情報、たとえば耳に聞こえてくる「投資ラジオ」だとか「ちらっと見た(今トレードしているのとは別の)金融商品のチャート」だとか、とにかく、その結論に至る過程で得た、ありとあらゆる外部情報が感覚に影響を与えているわけですよ。
人間というのは感情の生き物ですから、それこそ、突然窓の外で豪雨が降り出した、なんていう天気だったり、昨日彼女にフラれた、なんていう感情さえ影響を与えている可能性があるわけです。

トレーダーは、常にそういう感覚的なものを得ながらチャートを判断しているわけで、その過程部分をすっ飛ばしてしまって結果だけをまず提示するのが、文章によるチャート解説なわけです。
で、はじめに結果ありきで、あとから、その結果に至る理由を「理屈で説明できる範囲だけを取り出して説明している」わけなんですが、そうすると、結果に至る途中で得ていたはずの感覚的なものがごっそりと抜け落ちている状態になるわけです。
ですが、実際に長い間トレードをしていると
本当に大事なのは、そのごっそり抜け落ちている部分であり、その比重がとても大きい
と理解できてくるわけですよ。

その肝心の部分がなければ、チャート解説なんかしても意味ないだろう、と思うわけです。
だから、私は、あまりチャートを出してきて後知恵で解説する方法は感心しないし、あまりやりたくないんです。
昔の相場師達が、著書の紙面でそれをやっていないのも、同じ理由だと思います。

たとえばですね、青軍と赤軍が戦っているのを俯瞰視点で見ていたとして、青軍が赤軍に押されて、じりじりと後退していると。
これを結果論だけで見れば、「青が不利、赤が優勢」と言うしかないわけです。
ですが、実際の戦闘をつぶさに見ていると、様々な情報から「実は青軍のほうが兵士が優秀であろう」と感じることはあると思うんですよ、これと同じことなんです。
だからこそ、同じ上ひげの陰線であっても、実際のトレードでは、理屈とは違って、感覚的には、逆に「これは強い」と感じる場面があったりするわけです。

しかし、それは決して言葉では伝えられない部分ですから、本に書くチャート解説というのは、言うなれば
換骨奪胎した状態の説明
でしかないわけです。

ここのところが、本を書く上で、常に悩ましいところなんで、常々「感覚的なもので、本当には説明できない」などと書いているわけなんですが、もっと悩ましいのは、そもそも、この「感覚的なもので、本当には説明できない」ということが「なんで?」と、うまく伝わらないことなんですよねw

なんとか伝えたい、という思いは、今でもあるんで、そのうち今後の著書ではやるかもしれませんけど。








オーナー紹介 増田蔵人
フリーで造型、PC関係等の仕事を多岐に渡り担当、関連雑誌等のライター。本名で著書が十数冊ある。
投資歴は30年。近年ライターとしての仕事が激減したため、プロトレーダーとして生計をたてるに至る。
2015年、ライター生活の集大成、トレーダー啓蒙書『投資の聖杯 ~投資常識の嘘~ 本気で勝てるトレーダーになりたい人のためのバイブル』を電子書籍でリリース。
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ツナギ売買の入門と実践 [増田蔵人 著]


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